2026年9月3日、一つのニュースがAI業界をざわつかせました。元OpenAIのCTO(最高技術責任者)、ミラ・ムラティ氏が率いるThinking Machines(シンキングマシンズ)が、評価額40億ドル(約6,000億円)での資金調達を交渉中と報じられたのです。売上は年間1億ドル超に到達。評価額は売上の実に400倍超という異例の数字です。本記事では、この急浮上したAIラボの1年を振り返り、投資家が再び賭ける理由をひも解きます。
- なぜ今、Thinking Machinesなのか——9月3日の速報から
- 1年で評価額はどう動いたか——12億→50億→頓挫→40億ドル
- 最大の転機は「人材の逆流」——崩壊しかけた冬
- 【比較表】AIラボの4つのビジネスモデル
- オープンウェイト×インフラ課金——TinkerとInklingの仕組み
- Inklingの技術的ブレイクスルー——「考える量」を調整できるモデル
- なぜNVIDIAは「投資家」になるのか——1GWの計算資源と資本の一体化
- 産業へのインパクト——エンタープライズAIの選定軸が変わる
- 残る課題——400倍の倍率と、繰り返される信用の問い
- 【FAQ】Thinking Machinesに関する6つの疑問
- まとめ——2026年秋、AI投資の新たな試金石
なぜ今、Thinking Machinesなのか——9月3日の速報から
まずは今回のニュースの中身を整理しましょう。The Informationが9月3日に報じた内容によると、Thinking Machinesは10億ドル(約1,500億円)の新規調達を、評価額40億ドル以上で交渉中です。既存投資家のAccel(アクセル)が主導役として交渉を進め、シードラウンドから出資するNVIDIAも参加を協議しているといいます。
注目は、財務の実態です。関係者によると、年間売上レートは1億ドル超。40億ドルの評価額は売上の400倍以上に達する「異常な倍率」ですが、それでも投資家は前を向きます。このニュースはX(旧Twitter)でも拡散され、日本語圏の投資家の間でも話題となっていました。私がリアルタイム検索で確認したところ、「年間売上100億円超えでAccelが調達を主導する交渉中」という投稿がトレンド入りしていました。
注目すべきは、この40億ドルという数字の意味です。昨年末に狙った50億ドルを下回る「現実的な水準」であり、市場が熱狂から落ち着きを取り戻した証とも言えます。なぜこのラボがここまでの評価を得たのか、その軌跡をたどりましょう。
1年で評価額はどう動いたか——12億→50億→頓挫→40億ドル
評価額の変遷は、AI業界の熱狂と現実を映す鏡のようなものです。Thinking Machinesの軌跡を時系列で追ってみます。
2025年2月。ムラティ氏はOpenAIを退社し、新たなAIラボを創業しました。彼女はChatGPTやCodexの実用化を指揮した「OpenAIの顔」の一人。その人脈に共鳴し、約20数名の元OpenAI研究者が続々と合流します。創業直後から「次なるAnthropic」という期待が集まりました。
2025年7月、史上最大のシードラウンドが成立します。調達額は2億ドル(約300億円)、評価額は12億ドル。主導はアンドリーセン・ホロウィッツ(a16z)で、NVIDIAやGV、Lightspeed、Conviction Partnersが参加しました。製品が一つもない段階での巨額調達は、まさに「人材プレミアム」の象徴でした。
勢いはその後も続きます。2025年10月には、モデルのファインチューニング用プラットフォーム「Tinker」を公開。11月には、評価額50〜60億ドルという大型ラウンドの交渉が報じられました。創業からわずか9カ月で評価額5倍前後という驚異的なペースです。
しかし、その直後に暗転します。2026年1月、交渉は白紙に。評価額の目安はシード時の12億ドルへとリセットされました。理由は「人材の逆流」でした。
最大の転機は「人材の逆流」——崩壊しかけた冬
2026年1月のある日、共同創業者でCTOを務めていたバレット・ゾフ氏が、オールハンズミーティングの最中に退社しました。その1時間後、OpenAIはゾフ氏に加え、共同創業者のルーク・メッツ氏、研究者のサム・シェーンホルツ氏の復帰を発表します。「戻り人材」の受け入れを後悔しない、明確な意思表明でした。
この出来事は投資家の信頼を大きく揺るがしました。ムラティ氏のビジョンに共鳴して集まった天才たちが、次々と古巣へ戻る構図。7月には、もう一人の共同創業者リリアン・ウェン氏もOpenAIへ移籍します。評価額の根拠だった「人材プレミアム」が、崩れかけた瞬間です。
それでも、Thinking Machinesは倒れませんでした。社員約200人の組織は開発を継続し、Tinkerの利用者を増やし続けます。私が興味深いと感じるのは、この「喪失を乗り越えて実績で巻き返す」構図です。人材の魅力だけでなく、製品と売上の実力で勝負するフェーズへ移行したのです。
【比較表】AIラボの4つのビジネスモデル
なぜ投資家は、このラボにこれほど期待するのでしょうか。背景には、従来のAIラボとは一線を画すビジネスモデルがあります。主要プレイヤーの戦略を比較してみましょう。
| ラボ | モデル戦略 | 主な収益源 | 代表モデル |
|---|---|---|---|
| Thinking Machines | オープンウェイト | Tinkerの計算資源課金 | Inkling |
| OpenAI | クローズド | API・サブスク | GPTシリーズ |
| Anthropic | クローズド | API・サブスク | Claude |
| 中国オープン勢 | オープンウェイト | 低価格API・クラウド | DeepSeek・Kimi |
| Meta | 大部分オープン | 自社サービス | Llama系 |
表の通り、OpenAIやAnthropicはモデルを囲い込み、APIやサブスクで課金するのが基本です。一方、Thinking Machinesはモデルを無料公開し、調整や実行に使う計算資源で収益を得ます。いわば「包丁は無料、調理場は有料」という逆転の発想と言えます。
オープンウェイト×インフラ課金——TinkerとInklingの仕組み
収益モデルの中核となるのが、プラットフォームのTinkerと、自社初のモデルInklingです。それぞれの役割を見ていきましょう。
Tinker——「モデルを育てる」ためのAPI
Tinkerは、企業が自社データでモデルをファインチューニングするためのクラウドAPIです。2025年10月にローンチし、12月には全面公開となりました。ユーザーはオープンウェイトのモデルを自分の用途に合わせて調整し、使用した計算量に応じて支払います。
この仕組みは、APIを借りるだけの従来型と明確に異なります。機密データを外部に出したくない企業にとって、自前の基盤でモデルを育てられるのは大きな利点です。
Inkling——西側最大のオープンウェイトモデル
2026年7月15日、Thinking Machinesは自社初のモデル「Inkling」を公開しました。総パラメータ数は975億で、タスクごとに活性化するのは約41億。テキスト・画像・音声・動画の4モーダルで学習したMoE(混合専門家)モデルです。
特筆すべきはコンテキスト長の100万トークン。ライセンスはApache 2.0で、誰でもダウンロードして改変・再配布が可能です。軽量版のInkling-Small(活性化12億パラメータ)も同時にプレビュー公開されました。
実行できる場所が広がる「配信網」
InklingはTogether AI、Fireworks、Modal、Databricks、Basetenといった各社のクラウドで推論が可能です。GPUメモリを半分に抑える量子化版(NVFP4)も用意され、自前運用の敷居を下げています。
「重みは誰でも使える。動かす場所では稼ぐ」という戦略は、配信網を広げれば広げるほど、自社プラットフォームの価値が高まる好循環を生みます。
Inklingの技術的ブレイクスルー——「考える量」を調整できるモデル
Inklingの面白さは、性能の数値だけではありません。設計思想そのものが新しさを持っています。特徴を3つ挙げます。
一つ目は、「思考量の制御」です。ユーザーは回答の深さをダイヤルのように調整できます。難しい問題はじっくり考え、日常的なタスクは高速に回答する。速度と品質のトレードオフを、自分で選べるのです。
二つ目は、不確実性を正直に伝える設計です。確信が持てない場合は推測でごまかさず、その旨を明示します。「それらしく答える」より「正確さ」を優先する姿勢は、業務利用での信頼につながります。
三つ目は、高いコスト効率です。同社の公開データによると、コーディング性能ではNVIDIAのNemotron 3 Ultraと同等を、わずか3分の1のトークン数で達成します。米国産のオープンウェイトモデルとしては最大級で、第三者機関の性能指数でもNemotron 3 Ultraを上回りました。
学習はNVIDIAのGB300 NVL72システムで実施されました。次世代モデルは、自社生成のデータだけで事後学習を行う「自己完結型」を目指すといいます。
なぜNVIDIAは「投資家」になるのか——1GWの計算資源と資本の一体化
このラボの構造を語る上で欠かせないのが、NVIDIAとの関係です。2026年3月10日、両社は複数年にわたる提携を発表しました。中核は、次世代システムVera Rubinを1GW分(ギガワット=大規模データセンター数棟分)導入するという計画です。同時に、NVIDIAは非開示の金額を出資しました。
さらに、両社はトレーニング・推論システムを共同設計します。つまりThinking Machinesの将来のモデルは、最初からNVIDIAのアーキテクチャに最適化されて生まれるのです。4月には、Google Cloudとの複数億ドル規模の提携も報じられています。
NVIDIAは「チップを売る会社」から、次世代フロンティア企業の「株主になる会社」へと役割を広げています。今回のラウンドでも参加を協議中とのことで、「最大の投資家であり、最大の供給者」という構図が鮮明になっています。
実績の一つとして、世界最大のヘッジファンドであるBridgewater Associates(ブリッジウォーター)との協業も注目されます。企業利用の現場でInklingがどう使われるか、業界は注視しています。
産業へのインパクト——エンタープライズAIの選定軸が変わる
このビジネスモデルが広がると、企業のAI選定の基準が変わります。「APIを借りる」から「自前で育てる」へのシフトです。
特に刺さるのが、機密情報を外部に持ち出せない業界です。金融や医療、官公庁では、データを預けること自体がリスクになります。オープンウェイトのモデルを自社基盤で調整できれば、その不安を解消できます。
もう一つの視点は、オープンソース・エコシステムの地図の変化です。MetaがLlama開発を縮小した後、西側のオープン枠には空白がありました。Inklingはその空白を埋める「西側の受け皿」として位置づけられます。中国製モデルへの依存を減らしたい企業にとっても、選択肢が広がります。
オープンとクローズドの二極化は、今後さらに進むでしょう。性能だけを追うならクローズド、制御性を重視するならオープン。時代は「どちらか一方」ではなく「使い分け」に向かっています。
残る課題——400倍の倍率と、繰り返される信用の問い
期待が大きい一方で、乗り越えるべき壁も明確です。まず、400倍超という評価倍率。売上1億ドルに対する40億ドルの評価は、成長を先取りした数字でしか成立しません。
次に、オープンウェイトの宿命です。モデルを無料公開する以上、誰かが自分のサーバーで動かせば、そこからは収益が生まれません。「収益化は計算資源の提供」というモデルが、どこまで持つかは未知数です。インフラ支出と収益のバランスも、まだ詳細に開示されていません。
そして何より、1月の頓挫の記憶があります。投資家は、同じ失敗を繰り返すでしょうか。今回のラウンドが成立するかどうかは、市場の信任投票として機能するでしょう。
私の見立てでは、このラウンドの成否はThinking Machinesだけの問題ではありません。人材の実績と財務の実績のどちらを評価するのか。AIスタートアップ投資全体の「物差し」が試されているのです。
【FAQ】Thinking Machinesに関する6つの疑問
ここでは、よくある質問とその回答をまとめました。理解の助けにしてください。
| 質問 | 回答 |
|---|---|
| Thinking Machines Labとは何者ですか? | 元OpenAIのCTO、ミラ・ムラティ氏が2025年2月に設立したAIラボです。オープンウェイトのモデルと、カスタマイズ用プラットフォームのTinkerを手がけます。 |
| なぜ評価額が短期間で急上昇したのですか? | 創業者の経歴とTinkerの成長、NVIDIAとの提携が評価を押し上げました。売上1億ドル超という実績も加わったためです。 |
| Inklingの性能はどの程度ですか? | 米国産オープンウェイトでは最大クラスです。コーディングではNemotron 3 Ultraよりも少ないトークンで同等の性能を出します。 |
| モデルを無料公開して、どこで稼ぐのですか? | モデルの調整や実行に使う計算資源で課金します。「包丁は無料、調理場は有料」という発想です。 |
| 中国のオープンモデルと何が違うのですか? | 西側発のオープンウェイトである点と、エンタープライズ向けのカスタマイズ基盤を持つ点が特徴です。 |
| 一般ユーザーも使えますか? | Apache 2.0で公開されており、誰でもダウンロードして利用できます。複数のクラウドでも推論が可能です。 |
まとめ——2026年秋、AI投資の新たな試金石
Thinking Machinesは、人材プレミアムから実績プレミアムへの転換点に立っています。評価額40億ドルのラウンドが成立すれば、オープンウェイト×インフラ課金という新モデルが本格的に承認されたことになります。逆に頓挫すれば、AIスタートアップ評価の潮目が変わると言えるでしょう。
ムラティ氏の挑戦は、「AIを囲い込むか、解き放つか」という業界全体の問いかけでもあります。今後の行方から目が離せません。
本ブログでは、AI業界の最新トレンドを引き続きお届けします。気になる方は、記事をブックマークして定期的に確認してください。次世代AIの最前線を追う旅を、今すぐ始めましょう。

コメント